息子が3歳くらいまでを思い返してみると、私は「いい母親になりたい」とずっと思っていました。
プレママ教室や育児教室には可能な限り参加したし、ママ友さんもたくさん作ろうと思ってた。息子を連れて近くの子育て施設に行っては遊び、1日を息子のために過ごすことがほとんど。
母親だもん。子ども優先だよね。
おしゃれなんて二の次。
自分のやりたいことはこの子が巣立ってから。
そんなことを考えていた、と思う。いや、考えてたというより、そうするのが当たり前と思い込んでいた、という表現の方が近いかな。
当然、そのような生活は長くは続かなくって、私は疲弊する一方。
元々自由に生きてきた人間だから尚更辛かったんだなぁと今となってはわかるのですが、その当時の自分は「母親に向いていないんだな」「自分ってダメな人間だな」と自己嫌悪に陥る一方でした。
あの頃の私は「いい母親=自分のことを犠牲にしてでも子どもに尽くす母親」だと思っていたので、そもそも全てはそこから間違っていたのかな、と今となっては思んだけれど…そんなこと考える余裕なんて正直ないくらい、いっぱいいっぱいでした。
いい母親ってなんだろう?
今のわたしは「いい母親=機嫌のいい母親」なんじゃないかな?って思っています。
掃除が苦手でも
料理は出来合いのものに頼っても
だらけている時間があっても
苦手なことは子どもに協力してもらったとしても
母親が機嫌がよく、笑顔でいてくれたら、案外子どもは幸せなんじゃないかって。母親の幸せそうな姿を見て、自分も不完全だったとしても幸せになろう、そう思えるんじゃないかって。
誰だって大好きな人の笑顔が見たいから。
でもそう感じ始めたのは、私が自分を満たすことから始めたら、息子にもいい影響があったからこそなんですよね。それまでは全然思えなかった。
ここの親子の変化も、また書いていきたいです。
料理ができなくても愛情はある
少し話は逸れますが、よく「愛情をかけて手料理を食べさせましょうね」という言葉を耳にします。
私はこの言葉に反対。
たとえ、手料理じゃなくても、子どもに対してご飯をちゃんと食べさせている。そこにはしっかり愛情があると思うから。愛情がなければ、きっとご飯すら与えていないだろうし、極端にいえば「愛情があるなら汚れ物は洗濯板で洗いますよね」と言っているのと同じように感じる(笑)
もちろん、料理が好きな人はどんどんやったらいいと思います。これはあくまで「苦手で苦痛なのに無理してやる必要本当にあるの?」という疑問があったから出てきた言葉。
手間をかければ愛情があるわけではない。手間をかけて不機嫌になるくらいだったら、いっそ手抜きをして笑っている方が家族みんなにとってよっぽどいい、と私は思っている。そんな感じです。
自己犠牲の上での幸せは成り立たない
私は何度考えても最終的にはここに行き着きます。
母親だからって自分のことを犠牲にしてまで子どもを優先する必要なんてない。自分が幸せでなければ、子どもを幸せにすることなんてできないし、子どももそれを望んでいないと思う。
「いい母親」
きっと人によって考え方はそれぞれだと思うけれど、私は自分が機嫌よくいられる。そんな母親でいたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!